天下一品の歴史
そもそもラーメンというものは「中華そば」とも呼ばれる通り、中国から伝来した食べものですが、日本独自に様々な改良や進化・発展を遂げ、今や日本の国民食と言ってよい立ち位置に君臨しています。
それこそラーメン店の数だけ、様々な個性が存在。そうしたラーメン群雄割拠のなか、「こってり」な味わいを特徴とし、確固たる存在感を放っている天下一品のラーメンは、どのような経緯で誕生したのでしょか?ここでは、天下一品の歴史を紐解いていきたいと思います。
天下一品とは
ラーメン愛好家の方はもとより、一般消費者の方にも広く知られている天下一品は、ラーメンをメインに扱うフランチャイズチェーンの新色店になります。牛丼の吉野家や日本そばの名代富士そば、餃子の王将など、特定の料理をメインに扱う飲食チェーンは数多存在していますが、そのラーメン部門を率いる雄と言ってよいでしょう。
日の丸を思わせる赤い丸と白抜きの「一」を組み合わせたマークと、筆書きの「天下一品」の文字を組み合わせた看板でもお馴染み。1971年に屋台からスタートし順調に事業を拡大。2015年時点での店舗数は海外の1店舗を含め、236店舗を有しています。(2023年4月現在)
その原動力は何と言っても、天下一品の代名詞ともなっている「こってり」味のスープであると言ってよいでしょう。
天下一品グループの沿革
先にも触れています通り、天下一品は創業者である木村勉氏が1971年に京都でラーメンの屋台を出したことが始まりとされています。
大阪万博の翌年という世相のなか、実は木村氏がそれまで15年に渡って務めていた会社が倒産。限られた手持ちの資金で始められる商売として始めたのがラーメン屋台だったのだそうです。しかし、初日の売り上げは僅か11杯。
当時から京都はラーメンの激戦区であり、店舗も屋台も。それこそ星の数ほど存在していたのだそうです。そうしたなか木村氏は「自分にしか作り出せない味」を生み出さなければならないと痛感。資金難や商売敵とのトラブルなど、様々な苦労や困難に直面するなか、連日連夜研究を重ねたのだそうです。そして屋台を引き始めて4年目、転機が訪れました。
鶏ガラと11種類の野菜を丁寧に、丹念に煮込んだスープは、まるでポタージュのようにどろりとしており、麺にしっかりと絡みつく特性を発揮。それでいて見た目ほどには脂っこくはないという個性を放っていました。その後、天下一品の代名詞となる「こってり」スープの誕生でした。悲願であった「自分にしか作り出せない味」を生み出すことに成功した木村氏。そうした努力を、陰から見守っていた方がいました。
総本店の歴史と足跡
前述しました通り、現在では海外を含め、200以上の店舗を擁する一大フランチャイズチェーンに成長した天下一品。その第一号店こそ、京都府京都市左京区一乗寺に所在する現在の総本店なのです。
屋台のラーメン店を開始してから約4年。創業者の木村勉氏は資金難や同業者との軋轢など、様々な困難に直面しながら試行錯誤を重ね、苦労の末に独自の「こってり」スープを完成させました。
そうしたスープの完成とほぼ時を同じくして、木村氏にはもうひとつの大きな転機が訪れます。元来より木村氏と交流があり、度重なる困難とスープ完成へ努力する姿を陰から見守っていた石材店の社長さんが、自社店舗の敷地の一部を提供。その場所に屋台を固定して、より負担が少なく商売が出来るように図らってくれたのです。その石材店のあった場所こそ、天下一品の第一号店であり現在の総本店に他なりません。1975年のことでした。
以後、1979年には株式会社化。1982年には京都市伏見区にスープ工場を建設し、フランチャイズ展開も開始。現在では200以上の店舗を誇る一代フランチャイズチェーンとして成長を遂げ、天下一品のファンであると公言する著名人の方も多数。情報番組やバラエティ番組でも幾度となく取り上げられており、さらには創業者である木村氏の半生を描いたドラマも制作された程でした。
それほどまでに注目が集まり、また大きな支持が寄せられるのも、木村氏が困難に負けず、4年の歳月をかけて唯一無二の「こってり」スープを完成させたからであり、屋台から店舗開店へのチャンスを提供してくれた石材店の社長さんがいたからこそ。天下一品の総本店には、そんな歴史が刻まれているのですね。